五宝翁太郎先生を偲んで

   

  < 五宝先生像 >                                                                                                 盲学校の東入口を入ったすぐ左側,桜の木を背に,「五宝先生像」があります。五宝先生の晩年を写した胸像はまっすぐ遠くを見つめ,1.8mの石の台座の上にあります。背中には,「昭和三十年秋作」と刻まれています。胸像の作者は,「二十四の瞳群像」の作者,矢野秀徳氏です。台座の題字は,五宝先生の教え子でもあった,当時の徳島県知事,原菊太郎氏によるものです。
 この胸像は2代目で,1代目は,教え子らによって昭和10年(1935)に建てられましたが,太平洋戦争中の金属の供出命令により,その台座だけが残りました。2代目の除幕式は,昭和32年(1957)1月,校舎拡張落成式と同時に盛大に行われました。

    


 < 五宝家と八幡神社
 五宝先生(1863~1939)は,幼少期に五宝家の養子となりました。養父は眉山の山裾にある八幡神社などの宮司であり地主でした。
 五宝家は徳島市南庄町にあり,すぐ先には,幼い翁太郎の格好の遊び場となったであろう「椋の大樹」があります。そして,そこを抜けたところに八幡神社があります。 

    

新町小学校
 五宝先生は,明治23年(1890)4月,26歳の時,新町小学校に訓導として赴任しました。(折しも,同年10月17日に,小学校令が改正され,全国市町村に盲唖学校設置許可が明記されました)明治27年(1894)10月,新町小学校にひとりの唖児が入学し,五宝先生の盲聾唖教育が始まりました。(明治9年~明治32年までは,新町小学校は寺町にあり,明治39年に,現在の地に移りました)

     

安住寺
 明治29年(1896),2名の聾唖児のために,放課後,安住寺で,特別教育を始めました。その頃の新町小学校と安住寺は,300m程の距離にあったようです。(安住寺は,JR徳島駅から徒歩で10分程南西に行った寺町界隈にあります)
 明治34年4月,五宝先生は新町小学校を去り,京都第五高等小学校に訓導として赴任しています。おそらく,京都盲唖院への研修のためであったと思われます。半年後,徳島高等小学校訓導となって帰任しています。
 写真の安住寺は,昭和20年(1945)の徳島空襲によって焼失し,その後再建されたものです。

 

初代校長
 明治38年(1905),徳島県知事の認可を得て,私立盲唖学校を設立し,盲生3名が入学してきました。
 昭和6年(1931),文部大臣の認可を得て,徳島県立盲聾唖学校を設立し,初代校長に任命されました。
 昭和7年(1932),新校舎の設計図を仕上げ退職しました。69歳でした。
 昭和8年(1933)1月6日,名東郡八万村(現在位置)に新校舎が完成しました。

     

法谷寺
  八幡神社をさらに奥へ進むと,薬師如来を本尊とする法谷寺があります。「椋の大樹」から法谷寺に続く参道は,鬱蒼とした樹木に囲まれ,静寂の中にあります。この,法谷寺裏山の中腹に五宝家の墓所があり,そこに,75年の生涯を懸命に生きた五宝先生が,安らかに眠っています。

 

むすび
 五宝先生は,明治,大正,昭和に至る半世紀を,過酷な状況の中でこの教育を切り拓くために,尽力されました。
  とくに,明治期(草創期,私立盲唖学校,師範学校附属小学校盲唖学級)においては,教育の現場は五宝先生ひとりの力によって支えられ,その実をあげてきたと言えます。五宝先生ひとりの存在が,この教育を規定し方向付けたとも言えます。
 また,五宝先生の志を引き継ぎ,盲聾唖教育に尽力された幾多の先人達によって,この教育の振興が図られました。盲学校と聾学校が併設された新しい学校は,21世紀を生きる子ども達の幸福を実現するために,力強くその一歩を踏み出さなけばなりません。

 平成23年(2011)11月16日,盲学校と聾学校が併設された新しい学校の改築工事起工式が行われました。
  起工式を間近に控えた11月3日,徳島県の盲聾唖教育の生みの親であり,盲学校と聾学校の初代校長である,五宝翁太郎先生ゆかりの地を訪れ,足跡をたどりました。(元校長乾初枝先生)
  
                         参考文献:徳島県盲教育史(1980) 徳島県立盲学校発行